眼を開けると遠軽に着く直前であった。
どこか遠方に来た、そんな人にとってはここは降り立つのにふさわしい
響きを持った地名である。

 遠軽で方向転換を終えて、さらに石北本線を進む。
日の短い季節といっても、北海道なら朝は早い。4時を過ぎたばかりでも
もう東の空は白んできた。何とも筆舌に尽くしがたいグラデーションが
地平線から空に向けてかかっている。車内は眠ったままだが、
早起きはどこでも三文の徳なのだと思う。今日は快晴らしい。

 この先が楽しみだなと思っていると、生田原に停車。
車窓に現れる木々はカラマツであろう。葉は一枚も付いておらず、
梢には雪がのっかるのみ。

 細い流れに沿って、<オホーツク9号>は急勾配をゆっくりと登る。
10分以上かかって勾配を登りつめると古びたトンネルに進入。
その直前に鳴らした警笛の音が心なしか哀調を帯びて聞こえる。
レンガ造りのポータルの上部には蒸気機関車の煙の痕跡らしきものが
見えた。これが常紋トンネルである。

 北海道開拓に鉄道の果たした功績は大きい。
いまこうして鉄道の旅を楽しめるのも、先人の苦労があってのこと。
ありがたく思う。しかし、どのようにして鉄道が敷設されたのか、
忘れてはならぬことがいくつかあるように思う。常紋トンネルはそれを
考えるのにはうってつけの場所である。

 明治から昭和のはじめにかけての鉱山採掘や土木工事は、
いわゆるタコ部屋労働者に負うところが多かった。そこでは最低の住居と
食事、超長時間労働、監視と制裁、病人の放置、金銭的収奪などの
苛酷なことが、我々には想像もできないことだが行なわれていた。

 しかも北辺の地である。
熊に襲われるものもいれば、リンチの生き埋め、人柱なども行なわれた
らしい。後の昭和後期になってからは、ひび割れ修理をしていた
保線区員が、レンガの壁の裏から立ったまま埋められたと思しき人骨を
発見しているし、トンネル周辺からも人骨が多数発見されている。
いまでもこのトンネルにまつわる怪談話は多い。

 常紋トンネルを抜けると信号場を横に見て、北見盆地へ向けて
ぐんぐん下る。20分近くかけて登ったが、わずかな時間で蓄えを
使い果たしてしまったかのようで、4時54分に留辺蘂着。そこから
20分ほどでこの地方の中心都市である北見に着いた。

 かつて野付牛といったこの北見市一帯は、気候と肥沃な土地に恵まれた
ところで、米、小麦、ジャガイモ、甜菜など、他の農作物もできる。特に
ハッカの生産は有名である。まるで大都市の駅のように大勢の客が降り、
車内が目覚めたかと思えば発車後はまた静けさを取り戻した。
ずいぶん下車客が多かった。裕福なところらしい。

 北見を出るといよいよ朝の気配がしてきた。
凍てつく朝には違いないが、それでも人々は1日の活動を始めている。
美幌、女満別と停まり、呼人を過ぎると結氷した網走湖が現れる。

 氷下魚の釣り人が氷上で座り込んでいる。
その心中や、ローカル線を旅するぼくと、いかばかりか似ていると思う。
ただし、ぼくのように車中でぬくぬくとしてはいない。
彼らは生身で自然と向き合っているのである。

 道東の冬は厳しい。
死と紙一重だと思う。裏口に薪を取りに行って吹雪に巻かれ、
方角がわからなくなったりすることさえあるという。
そんなことは土地の人なら百も承知のはずで、今日は快晴である。

 デッキのほうに目をやると、ツアー客と思しき人が多くいた。
こういったツアーはやはり型が決まっているのだろうなと思う。
所詮ツアーだから飛行機には違いない。こんな定食的な旅行でも
北海道へ行ったことにはなる。それで北海道を知ったつもりになられては
そこに住む人と土地に対して、失礼というか誤解のもとになる気がする。

 自分のことを棚にあげてそんなことを考えてはいるが、
北海道で生活したことはないし、厳しい冬に対してもその片鱗に触れた
だけである。熊の住む知床半島に分け入ったことはあるが、人跡を
たどった観光ルートであったし、氷河の跡をとどめる日高山脈にこもった
わけでもない。そんなぼくでさえ、観光ツアーのスケジュールには
正直言って腹立たしさを覚える。内地と外地は違うという感情が
彼らに本当に芽生えるのか、大いに疑問だからである。

 6時15分、終点網走着。
ここで石北本線は終わる。観光客には紛れたくないので、
ホームの上でしびれたほうがましだと思った。



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夜行特急オホーツク A
氷雪の常紋峠
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