吉塚からは92番目の路線・篠栗線である。

 9時29分発の直方行快速電車に乗る。
2両編成の快速電車だが、ワンマン運転である。ワンマンとは
快速電車のサービスも落ちたなと思う。小学生の頃、篠栗線を走る
<赤い快速>が好きで、近かったからよく乗りに行った。
電化されて快速電車になり、力強いエンジン音は聞かれなくなった。

 篠栗までは完全にベッドタウンで、列車もゆっくり走る。
どの駅にもすれ違い列車がいて、複線化も近いのだろうなと思う。
変貌ぶりはすさまじく、まったく別の路線のようだった。悲しかったが
それでも変わっていないものがあった。運転士の真剣な表情だ。
<赤い快速>の運転室の後ろにはりついて運転士がハンドルを
操作するのをずっと見ていたことが常だった。

 そんな記憶をたどるうちに、旧勝田線跡など微塵もない柚須駅を
通過。さらに原町を過ぎて長者原に着く。香椎線と立体交差する
場所にできた駅だが、立派な駅舎に建て替わっていた。

 長者原を出て門松、そして篠栗に着き、乗客の半数以上が降りる。
乗客の流動が大きいのは篠栗までのようで、車内が空いた。
篠栗を出るとぐんぐんスピードを上げて八木山峠に挑む。
国道のバイパスを走るトラックなどはいとも簡単に追い越してしまい、
コンクリート橋の上にある筑前山手を通過する。

 篠栗までのベッドタウン化は激しかったが、山中に分け入ると
やはり趣が違ってくる。ボタ山が目立ち、地下には炭鉱の坑道が
張り巡らされて時々陥没事故も起きたという筑豊地方えお目指す
路線には思えなかった。ぼくが以前に来た時は、飯塚駅などは
構内も広く、かつての殷賑を偲ばせ、線路は雑草に覆われていた。

 田川もそうである。街の下は無数の坑道が掘りぬかれたまま放置
されていて、「田川の家はみなガタピシしとるけん」と言いたくもなった。
ただ、線路の下は掘らせなかったらしく、鉄道の陥没事故だけは
なかったという。そんな空しさのある地方を目指すような路線とは
思えなかったが、近代化の波はそれらの過去もろとも呑み込んで
しまったようである。

 八木山峠のサミットである城戸南蔵院前に停車。
春は桜の名所となる。冬には雪も降りやすいので、分岐器には
凍結防止用のカンテラも置いてあるそうだ。城戸から長い篠栗トンネル
に入り、出口にある九郎原を通過して筑豊地方に入る。
水田を駆け抜けて9時56分、桂川に到着。下車する。

 桂川の駅はホームがかさ上げされている以外は跨線橋も駅舎も
変わっていない。ディーゼルカーの似合う駅だ。途中下車印をもらい、
2番線のディーゼルカーに乗る。ちょこんと停まっているこの1両の
ディーゼルカーがこれから乗る原田行になる。“本線”と名の付く路線
を単行列車が走るのはここと北海道ぐらいではなかろうか。

 篠栗線・博多行の接続を受けて10時08分の発車となるが、
乗り継ぎ客は誰もいなかった。篠栗線と分かれて水田の中を進むと
上穂波に停まる。桂川から原田にかけての区間は筑豊本線の中でも
最もひなびた区間である。炭鉱のある飯塚より西は開業する必要が
なかったように思えるが、筑豊本線のルートは実は長崎街道そのもの
である。それゆえに篠栗線よりも開業は古い。

 上穂波から峠道にかかる。
冷水峠である。筑前内野から先も国道の長崎街道は並行しており、
1両のディーゼルカーよりも明らかに流量は大きい。心細い気持ちに
なって峠を越える。

 長い冷水トンネルを抜けると筑紫野が見渡せる。
もう筑紫山地の南側に出ていて、筑前山家に停車。ここも線路跡を
撤去したらしい。かつては佐世保行の寝台特急<あかつき>が
走っていたが、それもこれも諸行無常の響きである。

 西鉄大牟田線の線路と国道3号線バイパスを跨いで
原田駅に近づく頃、保育園児たちが手を振っていた。1日数往復しか
走らないローカル線沿線の子供たちである。保育園から出て少し
歩けば鹿児島本線もあって、それこそ特急列車が頻繁に走る。
そんな特急群よりも、1両のディーゼルカーに手を振るとは感心した。
子供たちに温かな日常を提供するためにも手を振って返事することは
当然である。バスや自動車に乗っているときにはこんな場面に
遭遇することはない。

 鹿児島本線が近づいてきて、長崎街道の宿場町・原田に着く。




110.通い慣れた路

112.鉄道の町

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最長片道切符の旅・33日目 
111.冷水峠
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